源平合戦という言葉は、何年もにわたって起こったいろいろな戦いをまとめて表したものです。
この記事では、有名な戦いからちょっとマイナーな戦いまで、源平合戦の主な戦いを網羅しました!
それぞれの戦いの簡単な解説も載せているので、源平合戦の流れをつかんでください!
※参考
源平合戦はなぜ起こったのか?原因やきっかけをわかりやすく解説!
源平合戦の年表
まずは源平合戦の年表から、主な戦いを見ていきましょう!
※それぞれの簡単な説明は、リンクから見ることができます
1180年 | 以仁王の挙兵 | 以仁王が平氏追討の号令を出す。 |
源頼朝の挙兵 | 伊豆で頼朝が挙兵。 | |
石橋山の戦い | 頼朝が平氏に敗北。 | |
衣笠城合戦 | 平氏が三浦氏に勝利。衣笠城陥落。 | |
波志田山合戦 | 甲斐源氏が平氏に勝利。 | |
各地の源氏が挙兵 | 源義仲が信濃国で挙兵。 | |
富士川の戦い | 頼朝と甲斐源氏が平氏に勝利。 | |
近江攻防 | 尾張、美濃の源氏に平氏が勝利。 | |
1181年 | 南都焼討 | 平氏の放火で寺院が被害。 |
清盛病没 | 清盛が亡くなる。 | |
墨俣川の戦い | 源行家が平氏に敗北。 | |
1183年 | 倶利伽羅峠の戦い | 義仲が平氏に勝利。 |
義仲の上洛 | 義仲が京都に入る。 | |
水島の戦い | 義仲が平氏に敗北。 | |
1184年 | 宇治川の戦い | 義経、範頼が義仲に勝利。義仲滅亡。 |
一ノ谷の戦い | 義経、範頼が平氏に勝利。 | |
1185年 | 源氏の中国、九州遠征 | 範頼が九州平定。 |
屋島の戦い | 義経が平氏に勝利。 | |
壇之浦の戦い | 義経、範頼が平氏に勝利。平氏滅亡。 |
1180年(治承4年)
以仁王(もちひとおう)の挙兵
源平合戦は、以仁王という皇室(天皇の親戚)が兵を起こしたことから始まります。
この時代は平清盛をはじめとする平氏がブイブイ言わせていて、まさに平氏の天下!という感じでした。
しかし、調子がいいぶん敵も多かったんですね。
この以仁王も平氏を嫌っていて、「平氏許さん!(怒)」という感じで兵を起こしたわけです。
以仁王は、全国にひっそりと暮らしていた源氏に「平氏倒すぞ!」と号令をかけました。
恨みは恐ろしい…
源頼朝の挙兵
以仁王の号令を聞いた源氏の中に、源頼朝(みなもとのよりとも)がいます。
頼朝は伊豆国(現在の静岡県)で挙兵することになりました。
このとき協力したのが、鎌倉幕府で執権となる北条氏です。
源平合戦と北条氏の関係について考える。源平合戦が鎌倉幕府での北条氏の活躍につながった?
石橋山の戦い
挙兵した頼朝は、伊豆国の偉い人を討ち取って相模国(さがみのくに、現在の神奈川県)に入りますが、ここでめちゃくちゃに負けます。
負けた理由は簡単で、兵の数が少ないというものでした。
実は頼朝は援軍を期待していたんですが、大雨による増水で援軍が間に合わなかったんですね。
大負けした頼朝は安房国(あわのくに、現在の千葉県)へと逃げました。
衣笠城合戦(きぬがさじょうかっせん)
頼朝が期待していた援軍は、石橋山の戦いに間に合うことが出来ませんでした。
援軍を送る予定だったのは三浦氏という人たちで、頼朝が負けたことを知って引き返すことになります。
三浦氏は衣笠城という城を本拠地にしていたんですが、ここに平氏の武将が攻めかかり、城を落とします。
三浦氏は頼朝がいる安房国へと逃げることになります。
「恥かかせやがって!!」ということで味方を増やして城を攻めたという経緯があります。
波志田山合戦(はしたやまかっせん)
このころ駿河国(するがのくに、現在の静岡県)に、甲斐源氏と呼ばれる人たちがいました。
彼らは名前の通り源氏に関係ある人で、平氏も彼らを倒すべく軍を送りました。
結果的にこの戦いは甲斐源氏が勝ち、平氏の武将は逃げることになりました。
武田の武将はめちゃくちゃ強いですから先祖の彼らも強かったのかもしれません笑
安房国に逃げた頼朝は、地方の武将を味方につけてどんどん力を強くします。
各地の源氏が挙兵
頼朝が挙兵したころ、源義仲(みなもとのよしなか)が信濃国(しなののくに、現在の長野県)で挙兵しました。
義仲は頼朝のいとこにあたる人物です。
彼は平氏と戦うのですが、のちに頼朝とも対立することになります。
富士川の戦い(ふじかわのたたかい)
安房国に逃げて力をつけた頼朝は、鎌倉を本拠地とします。
そのころ甲斐源氏も力をつけていて、甲斐国(かいのくに、現在の山梨県)や駿河国を抑えていました。
そこに平氏の追討軍が攻めてきます。
しかし源氏の軍勢は数万、平氏の軍勢は数千と兵力の差があったため、まともに戦うことがなく逃げ出しました。
平氏の軍が、水鳥が飛び立つ音にビビったというエピソードがある戦いです。
近畿地方の戦い
富士川の戦いで平氏が負けたことで、近畿地方でも反乱がおこりました。
いくつかの戦いがあるので、さらっと紹介します。
近江攻防(おうみこうぼう)
富士川の戦いの後、尾張や美濃(現在の愛知県、岐阜県)にいた源氏が兵を起こします。
彼らは琵琶湖の周りを抑えて、北陸から京都への道をふさぎます。
さらに京都までも占領したので平氏は焦ります。
ブチ切れた平氏は平知盛(たいらのとももり)という武将が追討に向かい、反乱をおさえました。
南都焼討(なんとやきうち)※1181年
先ほどの近江攻防で、源氏に味方した僧兵がいました。
僧兵とは、武器を持って戦うお坊さんです。
これに清盛は怒って、軍を送り込みます。
平氏と僧兵は激しく戦いますが、なかなか決着はつきません。
平氏は寺に火をつけるのですが、思った以上に燃えてしまい、東大寺や興福寺をはじめとする多くの寺が被害に遭いました。
建物は木造ですからそりゃ燃えますよね…
この戦いの結果、平氏は仏教勢力からめちゃくちゃ恨みを買ってしまいました。
参考:南都焼き討ちやその理由についてわかりやすく解説!平重衡の真意を考える
1181年(治承5年)
清盛病没
このころ清盛が病気で亡くなってしまいます。
平氏の力をここまで大きくしてきたのは清盛ですから、平氏にとって大きな損失だったと思います。
墨俣川の戦い(すのまたがわのたたかい)
全国各地で反乱がおこる中、尾張の国で源行家(みなもとのゆきいえ)という人物が力をつけていました。
彼は頼朝に打倒平氏の号令を伝えた人物でしたが、頼朝と一緒には戦っていませんでした。
平氏は追討軍を派遣し、墨俣川という川を挟んで行家とぶつかります。
行家は奇襲を仕掛けましたが失敗。
最終的に平氏の勝利に終わりました。
負けた行家は、義仲のところで戦うことになります。
反乱の鎮圧もしなければいけませんから平氏も大変ですね。
1183年(寿永2年)
倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)
信濃国で挙兵した義仲は何度か平氏と戦い、北陸地方まで支配することになります。
さすがにマズいと思った平氏は10万騎という大軍を送り込みます。
義仲と平氏はそれぞれ軍を分けて向かい合いますが、ここで義仲が奇襲を仕掛けます。
夜中にいきなり攻め込んで、平氏が崖の方向に逃げるよう誘導したんですね。
平氏はまんまとこの策にかかって壊滅しました。
義仲の上洛
平氏を破った義仲は、その勢いで京都に乗り込みます。
これを防げなかった平氏は一度、安徳天皇と三種の神器をもって西日本に逃げ出すことになりました。
京都に入った義仲でしたが、治安が悪くなったり朝廷といざこざを起こしたりしたことでだんだん嫌われていきました。
水島の戦い
京都から逃げた平氏は屋島(現在の香川県)を拠点にしていました。
義仲は平氏を討つために屋島に向かいますが、水島(現在の岡山県)で平氏とぶつかって負けてしまいます。
この戦いでは船を使いましたが、海の上での戦いは平氏の方が得意だったようです。
暦を作っていた平氏は日食を知っていたために驚かなかったとか。
朝廷と喧嘩し、平氏にも負けた義仲に対する信用はなくなってしまいました。
1184年
宇治川の戦い
義仲を見限った朝廷は鎌倉の頼朝に呼びかけますが、頼朝は弟の源義経(みなもとのよしつね)を京都に行かせます。
義仲は後白河法皇(ごしらかわほうおう)を幽閉して無理やり頼朝追討の命令を出させました。
それに対して頼朝の弟たちである義経と源範頼(みなもとののりより)が戦い、義仲は滅亡しました。
参考:宇治川の戦いについてわかりやすく解説!背景やあらすじ、先陣争いのエピソードなど
一ノ谷の戦い
源氏どうして争っていた間、平氏は少しずつ力を取り戻していきます。
それを見た後白河法皇は、頼朝に平氏追討の命令を出しました。
頼朝から命令された義経と範頼は平氏に攻めかかり、大勝しました。
このとき義経が行った奇襲は鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)として有名です
源氏の中国、九州遠征
一ノ谷で負けた平氏は、再び屋島を拠点として瀬戸内海を支配します。
源氏は中国、九州を抑えることで屋島の平氏を孤立させようとします。
本当は瀬戸内海を取りたかったんですが、水軍がなかったので難しかったんですね。
この遠征は範頼が担当しました。
源平合戦と九州の関係を解説!源範頼の九州遠征についてわかりやすく!
屋島の戦い
一方の義経は屋島の平氏に攻めかかります。
義経はここでも奇襲を使い、海上を警戒する平氏を陸上から襲って勝利します。
弓の名手、那須与一(なすのよいち)のエピソードがあるのはこの戦いです。
壇ノ浦の戦い
屋島を追われた平氏は壇ノ浦(現在の山口県)に拠点を置きます。
そして、それを追いかけた源氏と戦い敗北。
平氏の時代は終わりを告げました。
この戦の勝敗は、潮の流れが大きく関係したと言われています。
このとき安徳天皇も亡くなっており、三種の神器の1つが行方不明になりました。
源平合戦で三種の神器は壇ノ浦に沈んだのか?草薙の剣は現在どうなっているのか?を解説
最後に
今回は源平合戦の戦い一覧を、年表をもとに見ていきました。
主な戦いだけでなく、少しマイナーな戦いについても取り上げました。
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