源平合戦の倶利伽羅峠の戦いはどんな戦いだったのか?簡単にまとめて解説。勝敗や代表的なエピソードも紹介

倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いは、木曽義仲(きそよしなか)と平氏が戦い、義仲が勝利した戦いです。

場所は現在の石川県と富山県です。

平氏が大軍を失い、源平合戦の戦況が大きく動いた戦いでもあります。

また、義仲の機転が利いた作戦が光った戦いでもあります。

この記事では、そんな倶利伽羅峠の戦いについて簡単にまとめて解説します。

参考:源平合戦を簡単にわかりやすく解説!

源平合戦の原因やきっかけをわかりやすく解説!

目次

倶利伽羅峠の戦いの背景

以仁王(もちひとおう)の打倒平氏の号令から始まった源平合戦。

富士川の戦いで源氏が勝ち、義仲が北陸で勢力を拡大します。

この頃、近畿地方でも平氏に対する反乱が起こっていました。

また、奈良のお寺を焼いて(南都焼き討ち)恨みを買ってしまうなど、平氏の旗色は悪くなっていきました。

参考:源平合戦(治承・寿永の乱)の戦い一覧!

そこで平氏は北陸に10万の大軍を送ります。

力をつけてきた義仲を倒し、攻勢に転じようとしたわけですね。

また、北陸地方を義仲に抑えられることで、米などの物資調達が難しくなっていたことも原因だと言われています。

倶利伽羅峠の戦いの内容

始めに、お互いの戦力を確認しておきましょう。

源氏の大将は木曽義仲(源義仲)です。

兵力は数万と言われています。

平氏の軍の大将は、平維盛(たいらのこれもり)という人です。

彼は清盛の孫にあたります。

兵力は、10万弱の大軍でした。

火打城の戦い(ひうちじょうのたたかい)

倶利伽羅峠の戦いは、小さな戦いをいくつか経て行われました。

その最初の戦いが、火打城の戦いです。

この戦いは維盛が勝ち、義仲はいったん富山までさがります。

最初は、数も多かった平氏が優勢だったんですね。

般若野の戦い(はんにゃののたたかい)

義仲が引いたのを見た維盛は、5千の軍を送り込みます。

もともと数が多かった平氏は、軍を2つにわけることで義仲にも軍をわけさせ、1軍あたりの人数を減らす目的があったと考えられます。

また万が一義仲が軍をわけなかったら、平氏の主力で正面から当たって別動隊で後ろから挟み撃ちにできるという目論みもありました。

結果的に、平氏が軍を分けたのを知った義仲は、部下に6千の兵を任せて派遣しました。

平氏の軍が陣を張ったのが般若野という場所です。

般若野は現在の富山県にある地域ですが、正確な場所は分かっていないようです。

平氏が般若野にいることを知った源氏は奇襲を仕掛け、敗走させることに成功しました。

これが般若野の戦いです。

平氏は一度引き、もう一度軍を2手に分けました。

そして、3万騎の兵が志雄山(しおやま、現在の石川県)に、7万騎の兵が砺波山(となみやま、現在の富山県)の倶利伽羅峠に軍を配置します。

いよいよ倶利伽羅峠の戦いに突入です。

倶利伽羅峠の戦い

戦いの前

義仲は軍をわけ、部下に志雄山の平氏を任せます。

そして義仲は倶利伽羅峠へと向かいました。

実は、平氏が倶利伽羅峠に陣を置いたのは義仲によって誘導されたものだったんです。

さらに義仲は、平氏の背後に部下を回らせて、平氏の逃げ場をなくしていました。

奇襲

夜になると、義仲の軍は大声を上げながら平氏の軍に突っ込みます。

平氏はびっくりして逃げ出しますが、そこには義仲の部下が待ち構えていました。

平氏は敵がいない場所を探して逃げ回ります。

そして見つけた唯一の逃げ場が、倶利伽羅峠でした。

真っ暗で見えないという事もあり、平氏の軍は次々と谷へ落ちていきます。

その谷は平氏の兵が積み重なり、凄惨な様子だったそうです。

このことから「地獄谷」と呼ばれるようになったとか。

結局、平氏は10万もの大軍をほとんど失ってしまいました。

倶利伽羅峠の戦いのその後

10万もの兵を失ったとなれば、さすがに平氏も弱腰になります。

一方の義仲はこの勢いに乗って京都へと進みました。

そして、ついに上洛(京都に入ること)を果たします。

平氏は京都を守ることが出来ず、安徳天皇と三種の神器を連れて西日本へと逃げることになりました。

義仲はこの後もう一度平氏と戦って大敗します。

そして、義経たち源氏の武士によって滅亡することになるのです。

倶利伽羅峠の戦いのエピソード

義仲の奇襲が大成功した倶利伽羅峠の戦い。

こんな劇的な戦いですから、興味深いエピソードも残っています。

火牛の計(かぎゅうのけい)

奇襲によって平氏を谷へと追い込んだ義仲ですが、このときに牛を使ったんじゃないかと言われています。

その方法は、数百頭の牛の角に松明(たいまつ)をつけて、源氏の軍と一緒に突っ込ませるというものです。

義仲の軍数万、火をともした牛数百頭。

音も迫力もすごかったでしょうから、その効果は抜群でした。

その結果作戦は成功し、義仲は平氏の軍を壊滅に追い込みました。

実はこの作戦は、中国の戦国時代の武将が行ったと言われています。

中国の戦国時代は、漫画「キングダム」の時代です。

そのため、このエピソードは中国の話をもとに作られた創作だともいわれているようです。

平氏の前に現れた白装束の騎馬

源氏の奇襲を受けて逃げ惑う平氏。

そんな平氏の前に、白装束を着た数十騎の騎馬が現れます。

彼らはその後、谷の方に向かって走り去っていきました。

平氏の兵は、「あそこに逃げ道があるかもしれない」と思って後を追います。

そして、大量の兵が谷へと落ちることになりました。

この白装束の武士は誰だったんでしょうか。

普通に考えると義仲の作戦だと思われますが、彼らは義仲が先勝祈願を行った埴生護国八幡宮(はにゅうごこくはちまんぐう)のお陰だと言われています。

祈願を受けた神様が義仲を助けたのかもしれません。

平氏は天にも見放されていたのかと思うと、ちょっとかわいそうですね。

最後に

平氏が大敗を喫し、その力を大きく弱めることとなった倶利伽羅峠の戦い。

ここから義仲が孤立し、源氏同士の争いが始まることを考えても、源平合戦の中で大きな転機となったことに間違いはないでしょう。

この記事では、そんな倶利伽羅峠の戦いについて、エピソードも交えながら解説しました。

最後までご覧いただきありがとうございました。

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