どうする家康でも描かれた二条城会見とは?~徳川家康と豊臣秀頼の再会、豊臣家滅亡のきっかけ~

二条城会見とは、関ケ原の戦いのあとの1611年、京都にある二条城で行われた、徳川家康と豊臣秀吉の会見です。

この会見は、徳川家と豊臣家の力関係を逆転させ、豊臣家滅亡のきっかけにもなりました。

この記事では、二条城会見の背景や内容について解説します。

目次

二条城会見の背景

1600年、家康は関ケ原の戦いで石田三成に勝ってその力を強めていきました。

しかし、豊臣家の部下という立場は変わらず、豊臣家>徳川家という力関係のままでした。

家康はこれを何とか逆転しようと考えます。

一気に攻めてしまえばいいんじゃないか?と思うかもしれませんが、それはまだ難しい状況でした。

というのも、関ケ原の戦いで家康側についた武将には、三成を嫌っているだけで豊臣家のために戦う武将が多かったからです。

家康が豊臣家を攻めれば、彼らは当然家康に刃を向けます。

この時の家康には、豊臣家を滅ぼすことができる保証がなかったのです。

そこで家康は、孫の千姫を秀頼に嫁がせます。

参考:どうする家康にも登場!千姫の生涯や家系図、2人の夫との結婚について解説

これで家康は、豊臣家の当主である秀頼の義理のおじいちゃんになり、権力を持てるようになりました。

さらに、家康は将軍の立場を息子の秀忠に渡します。

この将軍交代には「将軍は徳川家の人がなる」という意味があり、豊臣家である秀頼には将軍になるチャンスが無くなりました。

そして家康は「豊臣家と徳川家、どっちが上かはっきりさせよう」と思います。

この考えが、二条城の会見へと繋がります。

二条城会見の内容

二条城会見の前

会見が行われた1611年、天皇交代の行事がありました。

これまで天皇だった後陽成天皇(ごようぜいてんのう)という人にかわって、後水尾天皇(ごみずのおてんのう)という人が天皇になりました。

家康はその行事に参加することになりました。

すでに70歳近かった家康は、久しぶりに京都へと向かいます。

この時代の平均寿命は30代だったので、70歳はかなりのおじいちゃんでした。

そして家康は、大阪城にいた秀頼に会おうと声を掛けます。

このとき秀頼は17歳。

今で言うと高校生の年齢ですが、当時の17歳は立派な大人でした。

二条城会見

先に二条城に着いたのは家康でした。

家康は後から来た秀頼を出迎えて、「平等の立場で会おう」と言います。

しかし秀頼は断って、家康が上という形で会見を行いました。

会見の内容は、何かを話し合うというものではなく、お酒を飲んで話すというなごやかなものだったようです。

また、お互いに刀や脇差を贈り合いました。

脇差は、普通の刀より短い刀です。

武士は普通の刀と脇差の2本を差して、刀が使えなくなった時や首を取るときに脇差を使いました。

二条城会見と加藤清正

この会見には、加藤清正(かとうきよまさ)という武将が秀頼についていきました。

彼は武闘派で、熊本城を作った人物でもあります。

そんな清正が会見についていったのは、秀頼が襲われた時の警護のためでした。

実は会見前、秀頼が家康のもとに会いに行くことに反対する武将が多くいました。

豊臣家が徳川家の下という形になってしまうことへの懸念や、秀頼に何かあったら…という思いがあっての反対でした。

そこで清正が

「ここで家康に会いに行かなければ臆病者のレッテルを貼られてしまいます。」

「何かあったら自分がなんとしても守って、また大阪城にお連れします」

といったのです。

この言葉が最後の一押しとなり、秀頼は家康に会うことを決心したと言われています。

結果的に何も起こりませんでしたが、清正は二条城の近くにも兵を潜ませたり、会見中に出されたお酒を飲まなかったりとかなり警戒していたようです。

会見が無事に終わるように、何日間も祈り続けていたという話もあります。すごい忠誠心…

家康を驚かせた秀頼の成長

二条城での会見は、家康と秀頼の久しぶりの再会でした。

以前会ったときの秀頼はまだ子供で、どんな人物かを推し量るには若すぎる年だったのです。

しかし、久しぶりに会った秀頼を見た家康は驚きます。

秀頼の身長は180cm以上あり、イケメンで威厳のある姿になっていたからです。

秀頼のお父さんである秀吉は、お世辞にもかっこいいとは言えない見た目でした。

背は低く、「猿」と言われるような顔つきだったようです。

もしかすると家康は、秀吉のような姿を思い浮かべていたのかもしれません。

しかし実際の秀頼は、秀吉に似ても似つかない凛々しい姿だったのです。

家康は、立派に成長した秀頼を見て「これは徳川家の脅威になるかもしれない…」と思います。

このことが、後の豊臣家滅亡のきっかけとなったと言われています。

二条城会見のその後

会見で秀頼を脅威に感じた家康は、豊臣家滅亡に向けて計画を進めます。

なんとか豊臣家を攻めたい家康は、いいがかりを思いつきます。

それが、方広寺というお寺にあった鐘に書かれた文字です。

その文字が「家康を倒して豊臣の発展を祈る」という意味にとれるということを口実に、大坂の陣へと発展します。

こうして豊臣家は滅亡しました。

最後に

この記事では、二条城会見について解説しました。

簡単にまとめると

・徳川家>豊臣家を位置づけた

・秀頼の成長に家康がおどろき、豊臣家滅亡の間接的な原因となった

という感じでした。

秀頼が小物だったら、豊臣家は残っていたのかもしれません。

すでに江戸幕府は開かれていましたが、豊臣家が残っていたらその歴史も変わっていたかもしれませんね。

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