徳川幕府の外交顧問!ウィリアムアダムスとは?徳川家康との出会いや妻、日本名や何人なのかを解説

250年以上続いた江戸幕府。

その創設期に、ウィリアムアダムスという人物がいました。

彼はイングランド人でありながら「青い目のサムライ」と呼ばれました。

この記事では、ウィリアムアダムスについて解説します。

目次

ウィリアムアダムスとは?その生涯を解説

イングランド時代

彼の日本名は「三浦按針(みうらあんじん)」といいます。

しかしその名前を名乗ったのは日本に来てからの話で、生まれは遠く離れたイングランドでした。

イングランドは、今のイギリスの右下(ヨーロッパ大陸側)のことです。

つまりアダムスは、今でいうイギリス人といういう事になります。

若いころのアダムスは造船について勉強します。

しかし、だんだんと造船よりも航海に興味を持つようになりました。

造船技術を持ちながら海に出るという流れは、ワンピースのフランキーみたいな感じですね。

さらに、アダムスが活躍した時代は「大航海時代」と呼ばれていました。

アダムスは海軍を経て、航海士として海に出続けました。

また、アダムスはメアリー・ハインという女性と結婚しています。

アジアへの航海

アダムスの航海は、アフリカ方面が中心でした。

しかし、アジア方面に向かう船の航海士が募集されているのを見て、その船に乗り込みます。

アダムスはオランダを出港し、西に進んで太平洋を横切る形でアジアを目指します。

アジアにつくまでには様々な障害がありました。

スペインによる攻撃、伝染病、嵐による沈没などによって、オランダを出る時には5隻いた船が1隻になってしまいました。

この船はリーフデ号という名前です。

日本への漂着

困難を乗り越えて日本にたどり着いたリーフデ号は、豊後国(ぶんごのくに、現在の大分県)に漂着します。

それをみつけた豊後国の大名は、「変な外国人が来た!」ということで役人に連絡します。

こうしてアダムスたちは捕まりました。

この出来事は、関ケ原の戦いの約半年前に起こりました。

アダムスと徳川家康の出会い

捕まったアダムスは、徳川家康の命令で大阪へと送られます。

当時はまだ豊臣家の時代ですが、豊臣家の部下で一番力を持っていた家康がその対応を行いました。

家康は最初、アダムスたちを海賊だと思っていたようですが、話しているうちにそうではないことを知ります。

そして、海外の様子をよく知っているアダムスたちを気に入りました。

徳川家康に仕えたアダムス

一度は捕まったアダムスですが、家康によって釈放され江戸へと向かいます。

家族を残してきたアダムスは「故郷に帰らせてほしい」と言いますが、家康はそれを認めませんでした。

それほどまでに家康は、アダムスのことを気に入り、頼りにしていたようです。

アダムスは海外との交渉の場に同席して通訳を務めたり、家康の部下に数学や航海術を教えたりしていました。

外交顧問としての活躍

造船術を学んでいたこともあり、家康の命令で船を作ることになります。

このとき作られたのが、日本で初めての造船ドックでした。

造船ドックとは、船を作ったり修理したりするための施設です。

このドックは現在の静岡県伊東市に作られています。

そして、アダムスは2隻の船を作ります。

これらは日本初の洋式帆船で、そのうちの1隻はメキシコまで航海しています。

アダムスは、日本の造船・航海技術の発展に大きく貢献したといえますね。

家康はこの仕事の褒美として、土地と名前を与えます。

この名前が三浦按針(みうらあんじん)というアダムスの日本名です。

「三浦」はアダムスがもらった土地がある場所の名前、「按針」は水先案内人という意味です。

航海に人生を捧げたアダムスにぴったりの名前と言えるでしょう。

また、アダムスはイギリスとの貿易も実現させました。

イギリスの貿易会社の船が平戸に来た際、貿易を許可する朱印状を発行する手伝いをしました。

晩年

家康が亡くなると、貿易が長崎と平戸のみになりました。

貿易の制限は、2代目将軍の秀忠などの政策が原因でした。

これにより、積極的に貿易の手助けをしていたアダムスの立場は悪くなってしまいました。

そして、1620年、アダムスは異国の地日本でその生涯を終えます。

彼が亡くなったのは平戸でしたが、遺言によって横須賀市にも供養塔があります。

アダムスにまつわる話

ここからは、アダムスにまつわる出来事やエピソードについて深堀していきます。

家康はなぜアダムスを気に入ったのか

家康と会った後、流れるように江戸に入ったアダムスですが、家康がそこまでアダムスを気に入ったのはなぜでしょうか?

これには、家康の外交に対する思いが関係していると考えられます。

関ケ原の戦いの前、日本は外国との関係がよくありませんでした。

理由は秀吉の朝鮮出兵やキリスト教の布教禁止です。

そこで家康は当時の経済大国であったスペインとの貿易をしようとしますが、うまくいきませんでした。

そのような背景もあって、家康はアダムスを気に入り、積極的に仕事を任せたんだろうと思います。

もう1人の妻

アダムスは、メアリー・ハインという女性と結婚していました。

しかし、故郷に帰れなかったアダムスには、日本でもう1人の妻がいたのではないかと言われています。

その女性は、馬込勘解由(まごめかげゆ)という人の娘でした。

馬込家というのは江戸幕府の実力者で、名家といってもさしつかえない家でした。

そんな家の娘と結婚したと言われるアダムスですが、その女性の名前や詳しいことは分かっていません。

お雪という名前であるという噂もありますが、これは間違いで、実際はわかっていないというのが本当のところのようです。

最後に

今回はウィリアムアダムスについて解説しました。

イギリス人でありながら、偶然が重なって家康に気に入られたアダムス。

その後の鎖国によって彼は不遇の最期を迎えましたが、日本の造船・航海に大きな影響を与えました。

今後も人物に対する記事を書いていきますので、気になったら見てみてください。

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