日本の長い歴史の中でも高い人気を誇る源平合戦。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも描かれるなど、源平合戦にまつわるドラマも数多くあります。
そんな源平合戦は、1180年~1185年の6年間にわたって起こった戦いです。
最終的には源氏が勝利し、鎌倉幕府が開かれるという事は知っているものの、そのきっかけや詳細については意外と知らない人も多いのではないでしょうか?
今回は、源平合戦のきっかけや流れ、その後に至るまでを簡単にわかりやすく解説しました!
源平合戦のきっかけ
源平合戦はなぜ起こったのでしょうか?源平合戦の原因を見ていきましょう。
1180年(治承4年)、安徳天皇が天皇になりました。安徳天皇のおじいさんは平清盛。
平氏の一番偉い人であり、平氏全盛期を築いたすごい人です。
まだ幼かった安徳天皇は政治ができないため、清盛は好きなように政治を行うことができました。
親族から天皇を出し怖いもの知らずの平氏でしたが、当然アンチもいます。
その一人が、以仁王(もちひとおう)という人物です。
彼は父親の後白河法皇(ごしらかわほうおう)を清盛に幽閉されており、彼自身も京都にあった土地を取られていました。
部屋に閉じ込めたまま…ということかどうかはわかりませんが、どこかに閉じ込めて影響力を無くしたわけですね。
アンチ清盛の彼は、平氏を倒そうとします。そこで、全国に潜む源氏に対して兵を起こさせました。
立ち上がった源氏の中には、のちに鎌倉幕府を開くことになる源頼朝もいました。
こうして、源平合戦が幕を開けました。正確には、治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)といいます。
源平合戦はなぜ起こったのか?原因やきっかけをわかりやすく解説!
源平合戦(治承・寿永の乱)の戦い一覧!年表で時系列を把握しよう
頼朝の挙兵~平氏全盛期の終わり
石橋山の戦い
以仁王の命令を聞いた源頼朝は、伊豆国(現在の静岡県)で挙兵します。
このとき彼に協力したのが、のちに鎌倉幕府で力を持つことになる北条氏です。
源平合戦と北条氏の関係について考える。源平合戦が鎌倉幕府での北条氏の活躍につながった?
兵を集めた頼朝は、伊豆の地方官僚を束ねていた山木兼隆(やまき かねたか)を襲って討ち取りました。
しかし頼朝の勢力はまだ小さいもので、平氏に攻められれば負けることは明らかでした。
次に頼朝は、相模国(現神奈川県)へと進み、石橋山に陣を構えました。
平氏側の大将は大庭景親(おおばかげちか)という人です。
このとき頼朝軍は300騎、平氏軍は3000騎と圧倒的な差がありました。
軍全体の人数はもっと多かったことになりますね。
兵力差があるのはわかっていたのに、どうして頼朝は平氏と戦おうとしたのでしょうか?
実は、相模国には三浦氏と呼ばれる人々がいて、頼朝は彼らを頼ろうとしていたのでした。しかしこの戦いに三浦氏は間に合わず、頼朝は多勢に無勢で戦うことになってしまったのでした。
さすがにこれだけの兵力差をひっくりかえすことはできず、頼朝は敗れました。その後頼朝は安房国(現在の千葉県)へと船で逃げます。
こうして源平最初の戦いは、源氏の敗北に終わりました。結構な負け様だと思いますが、捕まらずによく逃げられましたね。
安房国へと逃げた頼朝は、房総半島にいた強い人を次々と部下にして力をつけていきます。さらに頼朝は、武蔵国(現在の神奈川県)へと入り大きな力をつけました。
そして再び相模国へと入り、鎌倉を本拠地とします。このとき南関東は頼朝のものになっていました。
ここから他の源氏に戦いを任せ、頼朝自身は鎌倉から動きません。
まさに大将の戦い方です。
富士川の戦い
頼朝が関東地方を支配したことで、焦った平氏は軍を派遣しました。彼らと頼朝がぶつかったのは駿河国(現在の静岡県)の富士川という川です。ちなみに富士川の読み方は、「ふじかわ」らしいです。
石橋山の戦いでは、数が少ない源氏は大勢の平氏の前に敗れましたが、今回は逆。源氏が数万騎、平氏が数千騎といわれています。
あれだけ少数だった源氏が短期間ですごい数になっていますね。
これには甲斐源氏と呼ばれる人たちが関係していると言われています。
圧倒的な兵力差に戦う気をなくした兵士は逃げ出します。結局、源氏と平氏はまともに戦うことはありませんでした。
この戦い(戦っていませんが)の結果、駿河には源氏の力が及ぶことになりました。
清盛の病没
少し前まで怖いもの知らずの平氏でしたが、実はこのころからその勢には陰りが見え始めていました。
そもそも源平合戦の始まりは以仁王が出した打倒平氏の号令でしたが、以仁王のように平氏を嫌う人々が都にも多くいたわけです。
そして、安徳天皇の父親であり、清盛の義理の息子である高倉上皇が亡くなったため、清盛が幽閉されていた後白河法皇が再び力を持つことになりました。
そんな中、平清盛が病没します。絶対的なリーダーを失った平氏はここから転落の道をたどっていきます。
清盛の病気を「天罰だ」という人もいたようです。
源義仲の活躍~頼朝との対立
倶利伽羅峠の戦い
平清盛を失った平氏は、現在の愛知県の墨俣川(すのまたがわ)へと兵を派遣し、源行家(みなもとのゆきいえ)に勝利します。
平氏はこれ以上東には攻めず、北陸に向かって攻めることになります。
この後頼朝と対立し、木曽義仲の下につき、頼朝と戦って最期を迎えます。
北陸地方を支配していた源氏の武将は源義仲(みなもとのよしなか)です。彼は以仁王の号令を受け、現在の長野県で挙兵、北陸地方を支配していました。
平氏と義仲は勝ったり負けたりを繰り返していました。義仲を追い詰めることができなかった平氏は、志雄山(しおやま)と砺波山(となみやま)に兵を置きます。この2つの山は、現在の石川県と富山県にあります。
義仲は夜中に奇襲を仕掛けます。奇襲の前にはあらかじめ部下を回り込ませ、平氏が逃げられないようにしていました。
奇襲を受けた平氏は慌てて逃げ出しますが、待機していた義仲の部下にも追い回され、敵のいない方を探します。そうして逃げた先は、倶利伽羅峠。
平氏の軍勢は次々と谷底に落ちていきます。結局平氏は数万騎を失い、撤退しました。
義仲の上洛
平氏を打ち破った義仲は上洛します。上洛とは京都に入ることです。倶利伽羅峠で大負けしていた平氏は、安徳天皇を連れて西日本に逃げ出します。
しかし、義仲の軍は京都で略奪を行ったり、北陸宮(ほくろくのみや)という仲のいい皇族(天皇の一族)を天皇にしようとしたりしたため、評判が悪くなっていきました。
水島の戦いと義経の上洛
義仲は、後白河法皇の命令で、西日本に逃げた平氏を倒すために出陣します。
そして現在の岡山県で平氏と衝突しますが、大敗。多くの武将を失ってしまいました。
これを水島の戦いといいます。
後白河上皇は義仲を嫌っていたので、鎌倉にいた頼朝に上洛を呼びかけます。それに対して頼朝は、弟である源義経(みなもとのよしつね)を上洛させます。
義仲の最期
義経の上洛を知った義仲は、平氏と戦うのをやめて京都に戻ります。そして後白河法皇を幽閉し、法皇を脅して頼朝を倒すように命令させます。
それに対して頼朝は、弟の源範頼(みなもとののりより)を派遣します。範頼と義経は京都で義仲と戦い、義仲は最期を迎えることになりました。この戦いを宇治川の戦いといいます。
一口に源氏といっても一枚岩ではなく、それぞれの思惑があったという事ですね。
平氏の滅亡
2回目の平氏討伐の背景
話を平氏に戻します。義仲に大勝した平氏は西日本を支配するようになります。京都でごたごたをやっている間に力をつけたんですね。
平氏は西日本に逃げる時、安徳天皇とともに三種の神器を持ち逃げしています。三種の神器とは、天皇とともにあるべきとされている物です。これがないと天皇(?)という感じになって泊がつかないんですね。
平氏は安徳天皇を連れて三種の神器を持っているのに、後鳥羽天皇を天皇にするわけですから、朝廷(皇族が政治をする場所)と平氏は対立します。
結局、義仲を倒した義経・範頼が、力で三種の神器を取り返すことになります。
一ノ谷の戦い
平氏は福原(現在の兵庫県)に陣を張っていました。そこに義経・範頼軍が攻撃するわけですが、彼らは二手にわかれます。
範頼は数万の大軍を、義経は1万の別動隊を率いることになります。範頼軍は平氏と正面から戦います。平氏も懸命に戦っているため、簡単には打ち破れませんでした。
一方義経は、数十騎の部下を連れて平氏軍の背後にある一ノ谷を下って奇襲をしかけます。かなり急な崖だったので、平氏はここから敵が来るとは予想していませんでした。
平氏の兵は大慌てで海へと逃げ出し、源氏の勝利となりました。
屋島の戦い
逃げ出した平氏は、屋島(現在の香川県)に陣を張ります。
平氏を破った範頼は中国地方を西に向かって進撃していましたが、水軍がないために九州に渡ることができず、兵糧もなくなっていきました。結果的に大分県に渡ることに成功しましたが、水軍の不足を実感することになりました。
それを見た義経は、水軍を味方につけて平氏を背後から奇襲しました。平氏は海上を警戒していましたが、義経は陸路から攻撃したのです。
義経の軍は少数でしたが、後から源氏の大軍が来ると知った平氏は撤退し、壇ノ浦(現在の山口県)へと逃れます。
壇ノ浦の戦い
水軍を味方につけ、瀬戸内海を支配していた平氏ですが、屋島からの撤退によって支配力を失ってしまいました。
さらに、平氏側についていた水軍が源氏につき、範頼が九州に到達していたため、孤立状態にありました。
源平合戦と九州の関係を解説!源範頼の九州遠征についてわかりやすく!
平氏と義経軍は関門海峡(山口県と福岡県の境)で衝突します。九州にいた範頼は、陸から矢を放って義経を援護しました。
戦いが始まった直後は、海流の影響もあって平氏が優勢でした。
関門海峡は、潮の満ち引きによって海流が途中で変わります。
平氏は海戦に慣れていて、海流についてもよく知っていたのではないかとも言われています。
しかし、時間が経つと海流は逆向きになり、今度は源氏が優勢になります。
その結果、平氏は壊滅。武将たちは次々と海に身を投げました。
このとき、安徳天皇も、三種の神器とともに海に身を投げています。
このうちの一つ、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は見つからなかったと言われています。
源平合戦で三種の神器は壇ノ浦に沈んだのか?草薙の剣は現在どうなっているのか?を解説
こうして平氏は滅亡し、一世を風靡した平氏の世は幕を閉じたのでした。
最後に
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
今回は、源平合戦についてわかりやすく解説しました。
1つ1つの戦いや人物などに焦点を当てた記事も書いていくので、気になったら読んでみてください!
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