源平合戦では数々の戦いが行われ、いろいろな武将が活躍しました。
この記事では、源平合戦で活躍した武将とそのはたらきについて紹介します。
源平合戦はなぜ起こったのか?原因やきっかけをわかりやすく解説!
源氏
源義経
義経は戦いの面で活躍した武将です。
義仲追討
義経が源平合戦に参加したのは、富士川の戦いで頼朝と再会してからです。
はじめに義経は、頼朝の代わりに上洛します。
その後、宇治川の戦いで義仲を破り、討ち取りました。
一ノ谷の戦い
源氏同士の戦いの間、力をつけた平氏と一ノ谷で戦います。
大軍どうしの戦いで決着がつきませんでしたが、崖を馬で下って平氏の背後を攻めるという奇襲を成功させます。
これが決め手となって、源氏は勝利しました。
近畿地方の治安維持
一ノ谷の戦いのあと、義経は平氏を追って西日本に行く予定でした。
しかし、近畿地方で平氏側の武将が反乱を起こしたため京都に残ります。
朝廷がある京都周辺を守ることは重要な役割でした。
屋島の戦い
中国地方に遠征中の範頼が食糧難で困っていると知った義経は、屋島(現在の香川県)を拠点とした平氏と戦います。
ここでも、荒れた海を少人数で渡って攻め込むという奇襲を行い平氏を破りました。
壇ノ浦の戦い
義経は水軍を率いて壇ノ浦(現在の山口県)で平氏と戦い、滅亡させます。
彼は源氏の中で一番活躍したと言える武将で、朝廷からも高い評価をされています。
頼朝と違って最前線での活躍が目立ったため、「源平合戦と言えば義経!」というイメージになったのだと思います。
しばらく後に頼朝と対立し、最期を迎えました。
源範頼
あまり知名度はありませんが、義経と同じく前線で軍を率いたのが範頼です。
源平合戦にはいつごろから参加したか分かっていませんが、最初は東海地方の甲斐源氏と一緒にいたようです。
義仲追討
頼朝の弟としての最初の大仕事は、義仲の追討でした。
すでに京都にいた義経と違い、範頼は鎌倉にいましたが、頼朝の代理として近畿に向かって義仲を追討しました。
一ノ谷の戦い
義仲を討った後、力を蓄えた平氏と戦います。
義経と違い、大軍を率いて平氏と正面から戦いました。
この戦いは義経の奇襲が決め手となりましたが、範頼も、平氏の注意を引き付けるという重要な役割を果たしています。
中国、九州遠征
次に範頼は、中国・九州地方へと進みます。
この遠征は、屋島にいる平氏を孤立させるという目的がありました。
源平合戦と九州の関係を解説!源範頼の九州遠征についてわかりやすく!
途中で食糧難になるなど危ない場面もありましたが、中国・九州地方の平定に成功します。
同時期に、義経が屋島の戦いで平氏を破っています。
範頼が九州にいたことで、彦島(現在の山口県)の平氏は動くことができず、屋島での源氏の勝利に貢献したと言われています。
範頼の遠征によって、平氏は彦島以外の拠点を失い、逃げる場所すらなくなってしまいました。
壇ノ浦の戦い
壇之浦の戦いでも、範頼は前線に出ることはありませんでした。
平氏追討後は、取り返せなかった草薙の剣を探したり、平氏の生き残りの対処をしたりしています。
範頼の名前はあまり表に出てきませんが、平氏追討に欠かせない人物だったことに間違いなさそうです。
源義仲
挙兵
義仲は、頼朝と同じく以仁王の号令にこたえ信濃国(しなののくに、現在の長野県)で挙兵します。
中部地方を中心に戦い、北陸方面へと力を伸ばしていきました。
倶利伽羅峠の戦い
義仲は、大軍を送ってきた平氏を倶利伽羅峠で破ります。
義仲はこの戦いで、夜中に奇襲を仕掛けて平氏を崖から落とすという作戦を実行しました。
結果的に、平氏は大軍を丸ごと失っています。
上洛
平氏を破った義仲は、京都に攻め込み平氏を都から脱出させます。
しかし、治安維持の失敗や朝廷との対立を起こしてしまいました。
水島の戦い
義仲は西日本に逃げた平氏を追いますが、水島の戦いで大負けします。
このころ、範頼が京都に向かっているという情報を聞いて都に引き返します。
朝廷との対立と滅亡
義仲は後白河法皇を幽閉し、頼朝の上洛を呼び掛けた朝廷に文句を言います。
しかし、孤立していた義仲の味方は現れず、義経・範頼と戦うことを選びます。
そして宇治川の戦いで敗れた義仲は最期を迎えました。
義仲は頼朝と対立したことから滅亡してしまいましたが、それまでのはたらきは大きかったと思います。
倶利伽羅峠で十万近くの大軍を破ったことは平氏に大きな損害を与えています。
また、義仲が抑えていた北陸地方からは米などが都に送られていたそうで、物資調達の面でも平氏を苦しめたのではないかと考えられます。
源頼朝
源頼朝(みなもとのよりとも)は、源氏の司令塔として活躍した人物です。
挙兵
頼朝は、平治の乱で頼朝の父親である源義朝(みなもとのよしとも)が平清盛に負けたことで、伊豆に島流しにされていました。
彼は伊豆で20年ほど過ごし、北条政子と結婚します。
そして、以仁王(もちひとおう)が出した打倒平氏に応えて挙兵しました。
このとき手を貸したのが、北条政子の父親の北条時政(ほうじょうときまさ)たちであると言われています。
源平合戦と北条氏の関係について考える。源平合戦が鎌倉幕府での北条氏の活躍につながった?
関東地方の平定
挙兵した頼朝は関東を平定します。
途中で平氏に負けたこともありましたが、力をつけて関東を治めました。
このころから鎌倉を拠点にします。
平氏追討
頼朝は鎌倉にとどまり、その後の戦いは弟の義経や範頼(のりより)に任せます。
彼らは朝廷といざこざを起こした義仲を討ったり、平氏を追討したりと頼朝の手足となって働きました。
そんな弟たちに対して頼朝は、「安徳天皇を傷つけないように」「三種の神器を取り戻すように」など政治的に重要な指示を行っていました。
鎌倉幕府の印象が強く源平合戦で活躍したイメージのない頼朝ですが、関東を平定して平氏討伐の基礎を築き、鎌倉から義経と頼朝をサポートしたことは、活躍したと言うにふさわしいと思います。
平氏
源平合戦では敗れた側の平氏ですが、彼らの中にも活躍した武将はいました。
平知盛
平知盛(たいらのとももり)は、清盛の息子です。
清盛の生前は、平氏の武将として安徳天皇の警護などをしていました。
清盛の没後は兄の宗盛(むねもり)が平氏のトップとなり、知盛は他の平氏とともに彼を支えました。
平氏の再起
義仲によって京都を追われた後、知盛は屋島で軍を立て直します。
そして、水島の戦いで義仲を破るなどの活躍を見せました。
しかし、一ノ谷の戦いでは義経・範頼に敗れました。
彦島の護衛
一ノ谷で敗れた知盛は、彦島へと向かい範頼の九州上陸を防ぎます。
本来なら屋島にいた宗盛と連携を取るつもりでしたが、範頼が九州上陸に成功したため、知盛は彦島を動くことが出来ませんでした。
そんな中、屋島の戦いで宗盛が義経に敗れてしまい、残る拠点は彦島だけとなりました。
最期
決死の覚悟で臨んだ壇ノ浦の戦いでしたが、平氏は敗れます。
知盛は船の碇をかついで海に飛び込み、最期を迎えます。
このエピソードからは、生き恥をさらすことを好まない武士らしさを感じます。
知盛は敗れた平氏の武将という事もあり、戦いでの目覚ましい活躍というのはみられません。
ただ、屋島で平氏を立て直して義仲に勝ったこと、範頼の九州上陸を防いだことは紛れもない功績と言えるでしょう。
壇ノ浦での潔い最期も、名将とされる理由なのかもしれません。
個人的には、平氏のトップだった宗盛のポンコツっぷりも関係があると思います。
宗盛のポンコツエピソードはたくさんあるため、その弟である知盛の名将っぷりはより際立っていたのではないかと考えています。
いずれにせよ、知盛は指揮官としても武将としても優秀だったようです。
平教経
平教経(たいらののりつね)は、清盛の甥っ子に当たる人物です。
教経についてはよくわかっていないことも多いですが、彼の活躍を表す話をご紹介します。
水島の戦い
平氏はこの戦いで義仲に勝ちますが、教経も最前線で奮闘します。
大声をあげて攻めかかり、源氏の名のある武将を討ち取るなど、まさに猛将の言葉がふさわしい活躍を見せました。
屋島の戦い
攻め込んできた源氏に対し、平氏は矢で応戦しました。
教経も矢を放ち、源氏の武将を次々と討つ活躍を見せました。
壇ノ浦の戦い
源氏に敗れ、平氏の武将や安徳天皇などが海に飛び込みましたが、教経は戦い続けました。
そして最期に源氏の大将義経を討ち取ろうとします。
義経を見つけた教経は、一直線にとびかかろうとしますが、義経は船から船へと飛び移って逃げました。
これが有名な八艘飛びのエピソードです。
追いつけないと感じた教経は、源氏の武士2人を両脇に抱え込んで海に飛び込みました。
教経はまさに猛将といった活躍を見せたことが分かります。
負けムードの平氏側にあってなお義経を討ち取ろうとする姿は、いかにも武士らしいですね。
実は教経の最期についてはよくわかっておらず、一ノ谷の戦いで亡くなったとという説や、壇ノ浦の戦い以降も生きていたという説があります。
さらに、猛将であったかどうかもわかっていないようなので、もしかしたら全部フィクションかもしれません。
最後に
今回は、源平合戦で活躍した武将について紹介しました。
個人的な最強の武将は、大将としてなら義経、武将としてなら教経かなあと思います。
義仲も戦上手だったと思いますが、平氏に負けていない義経を最強にしました。
あなたが考える最強の武将は誰でしょうか?
ここで紹介した武将以外にも、活躍した武将はたくさんいます。
興味があれば調べてみてください。
最後までご覧いただきありがとうございました!
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