どうする家康にも登場した方広寺の鐘銘事件は言いがかり?わかりやすく解説

方広寺の鐘銘事件は、鐘に書かれた文字を見た家康が怒った事件です。

この事件がきっかけで、大坂の陣に発展したと言われています。

家康の言いがかりともいわれる事件ですが、実際はどのようなものだったのでしょうか?

この記事では、方広寺の鐘銘事件についてわかりやすく解説します。

目次

方広寺の鐘銘事件をわかりやすく

方広寺はどこのどんなお寺?

方広寺は現在の京都市にあるお寺です。

建てたのは豊臣秀吉で、高さ19mの大仏がありました。

東大寺の大仏が15m弱ですから、めちゃくちゃでかいということがわかります。

そんなでかい大仏ですが、地震で壊れてしまいます。

東大寺のように銅ではなく、木でできていたので、もろかったんですね。

ということで、今度は銅で作り直しました。

しかし、完成する前に、火事で燃えてしまいました。

この後に、秀吉は亡くなってしまいます。

そして今度は、秀吉の息子である秀頼が大仏を作り直します。

この作り直しは、家康が豊臣家のお金を減らすために誘ったと言われています。

この時からすでに家康が関わってたんですね。

そして大仏が完成し、問題の釣り鐘もできました。

鐘銘事件の内容

釣り鐘には、長々と詩が書かれていました。

その中に書いてあったのが、「国家安康」「君臣豊楽」という文字です。

漢字ばかりで難しいですが、「国が平和でありますように」「殿様や国民が豊かな暮らしを楽しめますように」という意味です。

それぞれ、「こっかあんこう」「くんしんほうらく」と読みます。

いたって普通の文章ですが、この文字が家康を怒らせます。

家康の言い分は、

「『国家安康』の中で、『家康』という文字を分けているのは、わしに対する呪いじゃないか!」

「『君臣豊楽』というのは、豊臣を君(殿様)にして楽しむという意味じゃないか!」

という感じです。

※ちなみに、この文字は堂々と書かれていたわけではなく、めちゃくちゃ長い言葉の中にちょびっと書いてあっただけです。

家康は他にも、

・家康が送った大工の名前が入っていない

・大仏完成の儀式の席順が気に入らない

・釣り鐘の文章は短くするはずだったのに、だらだら書いてて気に入らない

などの不満を言っていました。

この事件がきっかけで、豊臣家と徳川家の仲が悪くなり、大坂の陣へと突入していきます。

方広寺の鐘銘事件の後

この事件を受けて焦った豊臣家は、片桐且元(かたぎりかつもと)を家康のもとへ送ります。

立場上は豊臣の方が上でしたが、力があるのは徳川でした。

「戦いたい家康VS戦いたくない豊臣」という感じですね。

且元は、家康と関りがあった人物なので、間を取り持つには最適でした。

しかし、家康は且元と会うこともせずに、追い返しました。

そこで今度は、大蔵卿局(おおくらのつぼね)という女性が、家康のもとへ行きます。

彼女は、秀頼の母親である茶々を育てた乳母です。

すると家康は、彼女に直接会ってもてなします。

且元とは真逆の対応をしたわけですね。

大阪へ帰った且元は、ひどい対応をされたので、「家康は許してくれないかも」と伝えます。

そして、「許してもらうためにはこれくらいしないと…」ということで、

・秀頼を江戸に行かせる

・茶々を人質として渡す

・秀頼が大阪城を明け渡す

のどれかをした方がいいと言いました。

しかし、次に帰った大蔵卿局は、「家康はていねいに対応をしてくれたよ!」と言います。

豊臣家の武将たちは、「どっちが本当?」と困りました。

そして、豊臣側に不利な提案をしてきた且元を疑います。

これが原因で、且元は大阪城を出ることになりました。

あなたもうすうす感付いているとは思いますが、2人への対応を変えたのは、仲間割れを狙った家康の作戦です。

こうして豊臣家の内部を崩しておき、家康は大阪城攻めを始めます。

方広寺の鐘銘事件は言いがかりなのか?

鐘銘事件後の展開は、豊臣家を滅ぼしたかった家康の思惑通りに進みました。

しかし、「国家安康」「君臣豊楽」という文字は、戦いになるほどの問題だったのでしょうか?

これについては、学者の間でも意見が違うようですが、豊臣側が悪いのではないかといわれているようです。

今までは、戦争を起こしたかった家康の言いがかりという説が有力でしたが、その評価も変わってきています。

その理由について、2つ見ていきましょう。

お寺や学者の意見

1つ目は、専門家の意見です。

「国家安康」「君臣豊楽」という文字に対する、当時のお寺や学者の意見が残っています。

家康が質問した結果なので、家康びいきな感じは否めませんが、だいたい次のような感じです。

・家康の名前を分けたのはよくないですね。伝統的に天下人の名前を入れるのはやめたほうがいいです。

・家康の名前を気軽に入れるのはだめです。ただ、遠慮して書かないようにするべきかは忘れました。

ありえません。

・家康の名前を入れるのはよくないと思います。

良くないと思います。

・信じられません。呪いでしょう。

家康が言うように、「呪いである」と断定したのは1人だけでした。

しかし他の5人も、家康の名を刻んだことは「よくない」と言っています。

このように、呪いの意味はないとしても、許可なく家康の名前を入れたことは、批判されてもおかしくないものと考えられます。

家康はこの事件を許した?

もう1つは、家康はこの事件を許していたのではないか、というものです。

というのも、家康のもとに訪れた片桐且元に対して、家康の部下から

「鐘の文は問題だけど、且元さんのせいではありません」

「問題の部分だけ消してしまえば、鐘は使い続けけても大丈夫ですよ」

という意味の手紙が送られていたんです。

この事件を許していなければ、鐘そのものを捨ててしまってもおかしくありません。

しかし、この鐘が現在に至るまで残っていることからも、「許したのではないか?」と考えることができます。

最後に

この記事では、方広寺の鐘銘事件について紹介しました。

その真相については、未だにはっきりしたことが分かっていません。

個人的には、どちらかが100%悪いというより

・悪気はなくても、豊臣家側が悪い

・攻めるのに都合が良い家康も、あえて大げさにした

というのが本当のところではないかと思います。

あなたはどう思うでしょうか?

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