どうする家康にも登場!千姫の生涯や家系図、2人の夫との結婚について解説

大河ドラマ「どうする家康」に登場した、徳川家康の孫、千姫。

 

秀頼の奥さんとして知名度もある彼女ですが、2回目の結婚や晩年など、豊臣家滅亡後についてはあまり知られていないのではないでしょうか?

 

彼女は徳川という名家に生まれながらも、政略結婚や二度の夫との別れという不遇な人生を送っています。

 

この記事では、千姫の生涯や家系図、2人の夫(豊臣秀頼、本多忠刻)との結婚について解説します。

目次

千姫の生涯

幼少期

千姫は、徳川秀忠の娘として生まれます。

 

母親は、戦国大名である浅井長政(あざいながまさ)の娘、お江(おこう)です。

 

徳川家に生まれた千姫は、日本でもトップレベルで位の高い女性でした。

豊臣秀頼との結婚

そんな千姫は、7歳の時に豊臣秀頼(とよとみひでより)の正室になります。

 

この結婚は、豊臣家と徳川家の結びつきを強めるための政略結婚でした。

 

わずか7歳で知らないところに嫁ぐのは可哀想ですが、これは大名の娘としての運命のようなものでした。

 

秀頼と千姫は政略結婚でしたが、2人の仲は良かったようです

 

その仲の良さは、恋愛感情というよりも家族としての関係に近いものだったと言われています。

 

もしかすると、2人は夫婦であるとともに、従兄妹という関係だったからかもしれません。

 

秀頼の母親の茶々と、千姫の母親のお江は姉妹です。

 

仲の良かった秀頼と千姫ですが、2人の間に子供はいませんでした。

 

参考:茶々(淀殿)の家康との関係は?千姫との関係、年表や人物像も紹介

大坂の陣での悲劇

しかし、そんな2人の仲は無情にも引き裂かれてしまいました。

 

1615年、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡したのです。

 

豊臣家を滅亡に追い込んだのは、千姫の祖父である徳川家康でした。

 

大阪城からは火の手が上がり、千姫も脱出することになりました。

 

家康は豊臣家を滅ぼそうとしながらも、孫である千姫の命は助けようとしていました。

 

このとき千姫を助けたのが、坂崎直盛(さかざきなおもり)という人物です。

 

直盛はこのとき千姫に一目ぼれしますが、後に千姫に断られ、無理やり連れ去ろうとして処刑されるという事件を起こします。

 

せっかく助けたのに可哀想ですが、ストーカーみたいな感じだったのでしょうがないとも言えます。

 

直盛によって助けられた千姫は、「茶々と秀頼の命を助けてほしい」と頼みます。

 

しかし、この願いは聞き入れられず、2人は最期を迎えてしまったのです。

 

若くして、嫁いだ家の滅亡を経験した千姫の心には大きな傷が残りました。

 

このとき秀頼と側室の間に生まれた娘を養女にし、命を助けています。

本多忠刻との再婚

秀頼を失った千姫ですが、まだ18歳という若さでした。

 

豊臣家に嫁いだ時もそうですが、大名の娘には政略結婚という運命が付きまといます。

 

この時の千姫には、徳川家との関係を持ちたかった様々な家との結婚話がありました。

 

しかし、千姫の再婚相手は彼女の一目ぼれによって決まりました。

 

その相手は、本多忠刻(ほんだただとき)という武将です。

 

2人の出会いがいつだったのかはわかりません。

 

一説には、大阪城から脱出した千姫を護衛した忠刻に、一目ぼれしたと言われています。

 

忠刻は美男子として有名で、男を知らなかったであろう千姫が一目ぼれしたのも無理はないかもしれません。

 

忠刻との出会いは、千姫の初恋だったかもしれませんね。

政略結婚ではなかった結婚

忠刻は本多忠勝(ほんだただかつ)という家康の部下の孫で、もともと徳川家との関係が強い家の出身でした。

 

つまり、この結婚は政略結婚ではなかったのです。

 

この理由は、幼くして嫁がされた上に、豊臣家を失った千姫を気の毒に思ったからだと言われています。

 

言い方は悪いですが、まだ若い千姫には政略結婚の道具としての価値がありました。

 

豊臣家を滅ぼしたとはいえ、盤石というには程遠かった徳川家にとって政略結婚は非常に効果があったと考えられます。

 

それでも千姫を忠刻に嫁がせたことから、家康の孫を思う気持ちが読み取れます。

夫・本多忠刻が31歳で死去

しかし、その幸せも長くは続きませんでした。

 

忠刻が31歳という若さで亡くなってしまったのです。

 

千姫の幸せな結婚生活は、10年で終わってしまいました。

 

出家

再び夫を失った千姫は、江戸にもどって出家します。

 

豊臣家の滅亡に始まり、千姫の身には不幸が続いていました。

 

千姫の不幸は豊臣家の呪いと言われていたことも、出家の背景として考えられます。

 

出家後は、天樹院(てんじゅいん)という名前を名乗りました。

最期

出家した千姫は、江戸幕府の大奥で力を持つようになります。

 

大奥とは、将軍の奥さんやそれに使える女性がいる場所です。

将軍以外の男子禁制!!

 

彼女は政治にも介入するほどの力があったと言われています。

 

そんな千姫は、70歳でその人生を終えました。

 

平均寿命が35~40歳の江戸時代において、かなりの長寿でした。

千姫の家系図

 

千姫の家系図はこんな感じです。

 

pcで作るのが難しかったので手書きですが…笑

 

拡大してもらえると見やすいかなと思います。

 

もっといろんな人がいますが、主な人物だけに絞って書きました。

千姫のエピソード

最後に、千姫のエピソードについて見ていきましょう。

坂崎直盛の一目ぼれ

千姫が大阪城を脱出するのを助けたのが、坂崎直盛です。

 

このとき直盛は千姫に一目ぼれします。

 

しかし、千姫は直盛との結婚を拒否します。

 

2人の間には結婚の約束まで出ていたという話もありますが、なぜ千姫はこの話を断ったのでしょうか?

 

ここでは2つの説を紹介します。

①火傷

1つ目の説は、直盛の火傷を見た千姫が気持ち悪がったからだというものです。

 

大阪城はあちこちから火の手が上がっており、その中から千姫を探し出して助けた直盛はひどいやけどを負っていました。

 

それを見た千姫は、「気持ち悪い…」となって結婚を拒否したというのです。

②一目ぼれ

1つ目の説は、千姫が忠刻に一目ぼれしたからというものです。

 

忠刻と出会ったのは、直盛に助けられて江戸に向かう途中ですから、直盛と忠刻に出会ったのはほとんど同時期ということになります。

 

結婚の話まで出るのは江戸に帰ったあとだと考えられるので、この時すでに忠刻に一目ぼれした後だったのではないでしょうか。

 

個人的には、2つ目の説だと思います。

 

千姫は人に優しく穏やかな性格だったと言われています。

 

このことからも、火傷が気持ち悪いという人を傷つけるような言い方はしないと思うので、2つ目の説が正しいかなと思います。

最後に

今回は、不運に見舞われながらも天寿を全うした女性、千姫について紹介しました。

 

千姫は、徳川家康という権力者の孫として生まれながら

 

・秀頼との結婚と豊臣家滅亡

 

・本多忠刻との再婚と別れ

 

・出家

 

という波乱万丈の人生を送りました。

 

千姫は、自身が恵まれているとは言えない人生を送りながらも、人への優しさを忘れない素敵な女性だったようです。

 

他にも、大河ドラマに登場する魅力的な人物を紹介していくので、気になったら見てみてください。

 

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