富士川の戦いは、1180年に起きた戦いです。
石橋山の戦いの後に起きた戦いで、勝ったのは源氏です。
この記事では、富士川の戦いについてわかりやすくまとめました。
参考:源平合戦の全体像やきっかけについてはこちらをご覧ください。
源平合戦はなぜ起こったのか?原因やきっかけをわかりやすく解説!
富士川の戦いの背景
力をつけた頼朝
以仁王(もちひとおう)が出した打倒平氏の号令にこたえた源頼朝は、石橋山の戦いで負けてしまいます。
それでももういちど軍を立て直し、関東の武士をまとめ上げて力を付けました。
彼は鎌倉に拠点を置いて、平氏追討の司令塔となります。
富士川の戦いが始まる前、頼朝の軍は数万人という大軍になっていました。
甲斐源氏の挙兵
同じころ、甲斐国(かいのくに、現在の山梨県)で甲斐源氏という人たちが挙兵します。
彼らは甲斐国を支配したあとに駿河国(するがのくに、現在の静岡県)で平氏と戦って勝ちます。
こうして東海地方にも源氏が進出していきました。
甲斐源氏の人たちは頼朝の部下というわけではなく、あくまでも対等だったようです。
富士川の戦いの内容
平氏が軍を派遣
頼朝が挙兵したという話を聞いた平氏は、追討軍を派遣することにしました。
しかしなかなか軍がまとまらなかったので、頼朝は関東で力をつけていました。
平氏は移動しながらも兵を集めていきます。
平氏の軍は数万という大軍になっていましたが、寄せ集めの兵の士気はあまり高くありませんでした。
さらに、関東・東海地方にいた平氏側の武将が源氏に討たれたり、寝返ったりしたことで、平氏は不利になっていました。
開戦
平氏は何とか駿河国にたどりつき、富士川の西に陣を構えました。
しかし、数万人いた平氏の軍は数千人にまで減っていました。
これには、食料不足によって士気が下がり、逃げ出した人が多かったという理由がありました。
一方の源氏は富士川の東に陣を構えます。
このとき源氏の主戦力は頼朝ではなく、甲斐源氏の兵だったと言われています。
ちなみに、甲斐源氏の指揮官は武田信義(たけだのぶよし)という人物でした。
平氏の退却
源氏と平氏が向き合った夜、平氏の軍は撤退します。
このときまで、源氏と平氏の間に目立った戦いはありませんでした。
富士川の「戦い」といわれますが、実際には戦っていないんですね。
この戦いの勝者は頼朝ではなく、武田信義と言われています。
頼朝も信義も戦っていませんが、源氏の主戦力が甲斐源氏の軍だったため、信義の方が勝者にふさわしいということですね。
富士川の戦いのその後
この戦いの結果、甲斐源氏が東海地方を完全に治めることになります。
頼朝は関東でさらに力をつけるか、平氏を追って西日本に進むかで悩みます。
結局、関東の武士の意見を聞いて、鎌倉に戻ることにしました。
そして、頼朝と敵対していた武士を討ち、関東を治めることになります。
また、平氏が負けたことによって、西日本でも平氏に対する反乱が起こり始めました。
この戦いは、源平合戦の規模をより大きなものにするきっかけとなったと考えられます。
富士川の戦いのエピソード
水鳥の羽音に驚いて逃げ出した平氏
平氏は戦うことなく撤退しましたが、その理由を「大量の水鳥がはばたく音に驚いて逃げた」とする話が残っています。
この話は源平合戦のエピソードとして有名ですが、作り話の可能性が高いと考えられています。
実際には、
・水鳥の羽音で源氏が攻めてくることを知って逃げ出した
・そもそも数で負けていたので最初から撤退するつもりだった
という理由から撤退したという説が有力です。
義経と頼朝の感動的な対面
平氏が撤退した翌日、1人の若者が頼朝に会いたいと言い出しました。
その人物こそが、この後の戦いで大活躍する源義経でした。
頼朝の部下は、「得体のしれないやつを頼朝に会わせるわけにはいかない」と言って断りましたが、頼朝は「その年ごろの武士なら義経じゃないか」と言っ
て対面することができました。
その後の活躍を考えると、義経との再会は、源氏にとってかなり大きなアドバンテージになったと思います。
最後に
今回は、富士川の戦いについてまとめました。
戦いとして目立ったものではありませんが、源氏が力をつけたり西日本で挙兵が起きたりと、この後の状況に大きな影響を及ぼした出来事だったことがわかりますね。
他にも源平合戦に関する記事を書いていますので、読んでみてください。
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