源平合戦の兵力や戦った人数について解説!

源氏と平氏が争い、時代を大きく変えた源平合戦。

6年間にわたって日本各地で戦いが起き、かなり大きな規模の争いだったと思います。

源氏と平氏の兵力や、実際に戦った人数はどれくらいだったのでしょうか?

この記事では、それぞれの戦いの兵力に焦点を当てて解説していきます!

目次

源平合戦の流れやあらすじを簡単に解説

はじめに、源平合戦について簡単に説明します。

①平氏の力がめちゃくちゃ強くなります。

②「平氏にあらずんば人にあらず」なんて言葉できるくらい、平氏がやりたい放題します。

③そんな平氏のことが気に入らない人が源氏に呼び掛けて、源平合戦が始まります。

④源氏と平氏は場所を変えながら何度も戦います。

⑤壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡し、源平合戦は源氏の勝利で終わります。

かなり簡単にまとめましたが、源平合戦はこんな感じでした。

源平合戦のきっかけや流れについては、次の記事をご覧ください。

源平合戦(治承・寿永の乱)を簡単にわかりやすく解説!

源平合戦はなぜ起こったのか?原因やきっかけをわかりやすく解説!

源平合戦の兵力や戦った人数

ここからは、源平合戦の兵力や実際に戦った人数について見ていきましょう。

主な戦いごとにわけて紹介します!

石橋山の戦いの人数

まずは、源平最初の戦い「石橋山の戦い」の人数を見ていきましょう。

石橋山の戦いは、挙兵した源頼朝と平氏の追討軍の戦いです。

場所は相模国(さがみのくに)、現在の神奈川県です。

それぞれの兵力は、源氏300騎、平氏3000騎と言われています。

この戦いは平氏の勝利に終わりますが、勝敗をわけたのは兵力差だと考えられます。

約10倍の兵力差があるにもかかわらず、どうして頼朝は戦いを挑んだのでしょうか?

頼朝は三浦氏と呼ばれる人たちの援軍を期待していたのです。

しかしその日は大雨。

川の増水で三浦氏は戦いに間に合いませんでした。

頼朝は少ない人数で戦いましたが、さすがにどうすることもできず、なんとか逃げ切りました。

頼朝は現在の千葉県まで逃げ、力をつけてから再び相模国に入ることになります。

参考:源平合戦の石橋山の戦いを簡単にわかりやすく解説!

ちなみに騎というのは馬に乗った人の数です。

馬に乗らない人もいたので実際の人数はもっと多かったと思いますが、戦力は基本的に騎で表されるようです。

富士川の戦いの人数

次に、富士川の戦いの兵力を見ていきましょう。

兵力差についての説明も加えたため、ちょっと長くなっています。

兵力だけ知りたい人は最初の見出しを読んでもらえたら大丈夫です。

富士川の戦いの兵力

富士川の戦いは、頼朝をはじめとする源氏と平氏の追討軍の戦いです。

場所は駿河国(するがのくに)、現在の静岡県です。

石橋山の戦いで負けたのち、力をつけて東海地方に進出した頼朝と平氏の追討軍は富士川という川で向かい合います。

それぞれの兵力は、源氏4万騎、平氏4千騎と言われています。

石橋山の戦いとは真逆の兵力差ですが、桁が1桁あがっていますから、影響はさらに大きかったと思います。

最終的に、源氏の大軍を見た平氏は戦う気を無くして逃げ出しました。

飛び立った水鳥の音を奇襲と勘違いして逃げたというエピソードもあります。

この戦いの結果、源氏の力は東海地方にまで及ぶことになりました。

源平合戦の面白いエピソード、逸話を紹介!

兵力差がついた原因

富士川の戦いは石橋山の戦いのわずか2か月後ですが、頼朝はどうしてこれだけの数を集めることが出来たのでしょうか。

これは、東海地方にいる甲斐源氏と呼ばれる人たちが味方したからだと言われています。

源氏の主力は頼朝の直接の部下ではなく、甲斐源氏と呼ばれる人たちだったんですね。

ちなみに甲斐源氏はあの武田信玄の祖先と言われています。

一方の平氏は、当時京都で起こっていた食糧難が影響して多くの兵を集めることはできませんでした。

さらに、やりたい放題していた平氏の人気も高くなかったことも、兵を集められなかった一因だと言われています。

そのため平氏側の軍は数が少ないうえに、士気が高くありませんでした。

兵力だけでなく士気にも差があった両軍の戦いは、激しくぶつかることなく終わりました。

参考:富士川の戦いを簡単にわかりやすく解説!

倶利伽羅峠の戦いの人数

倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)は、源頼朝のいとこである源義仲(みなもとのよしなか)と平氏の追討軍の戦いです。

場所は加賀国(かがのくに)と越中国(えっちゅうのくに)、現在の石川県と富山県です。

この戦いは北陸地方を支配した義仲に対して、平氏が軍を送ったことから始まった戦いでした。

平氏が送った軍は約10万騎、対する義仲の軍は5千から数万騎と言われています。

兵力については文献によってばらつきがありますが、人数は平氏の方が多かったようです。

かなりの兵力差にも関わらず、義仲は平氏を打ち破ります。

その方法は、平氏の大軍を崖から落とすというやり方でした。

夜中に奇襲を仕掛け、崖がある方向に逃げるよう誘導したのです。

結果的に、平氏はこの戦いで10万の兵を失うことになりました。

一ノ谷の戦いの人数

一ノ谷の戦いは、平氏討伐の命令を受けた源氏が平氏を追って起きた戦いです。

場所は摂津国(せっつのくに)で、現在の兵庫県です。

頼朝の弟である源義経(みなもとのよしつね)と源範頼(みなもとののりより)が大将として戦いました。

一ノ谷の戦いでの兵力は、義経1万騎、範頼5万騎に対して平氏が10万騎弱というものでした。

これだけ見ると少し源氏が少ないなあという程度に思えますが、勝敗を決定づけたのは、義経が率いた100騎弱の武将でした。

源氏と平氏はともに軍を複数に分けて戦っていましたが、なかなか決着がつかずにいました。

そこで義経はわずかな兵力で、平氏が警戒していなかった崖から奇襲を仕掛けたのです。

これに驚いた平氏は混乱して逃げ出します。

これがほかの場所で戦っていた平氏にも影響し、源氏が勝利することになるのです。

大軍VS大軍の戦いを、わずかな兵力の影響で決着させた戦いと言えますね。

義経の奇襲は、鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)として有名なエピソードです。

屋島の戦いの人数

屋島の戦いは、一ノ谷の戦いで逃げた平氏を源氏が追いかけて起きた戦いです。

場所は讃岐国(さぬきのくに)で、現在の香川県です。

この戦いでの兵力は、源氏が数百騎、平氏が数千騎と言われています。

一ノ谷では数万VS数万だったのになぜこれほど少ないかというと、源氏と平氏ともに兵力を分散させて戦っていたからです。

源氏の大将は義経で、一ノ谷でのもう一人の大将範頼は中国地方で戦っていました。

一方の平氏も瀬戸内海の各地に兵を分散させていたため、一ノ谷よりも少数での戦いになったと考えられます。

結果はまたもや源氏の勝利。

しかも、義経の奇襲が勝敗のカギを握りました。

義経はわずかな兵で荒れ狂う海を渡り、平氏の背後から奇襲を仕掛けたのでした。

海を渡るのにかかる日数を大幅に短縮し、さらに海を警戒していた平氏を陸から襲ったことが、奇襲成功の要因とされています。

数百騎というのは少なすぎる気がしますが、大荒れの海を渡るのにビビって渡らなかった武将が多くいたようなので、もともとの兵はもっと多かったと思います。

この戦いの結果、瀬戸内海の支配力を失うことになります。

壇ノ浦の戦いの人数

壇之浦の戦いは、平氏が滅亡することになった源平最後の戦いです。

場所は関門海峡で、現在の山口県と福岡県の間です。

人数について書きたいところですが、壇ノ浦の戦いは海戦。

人数ではなく船の数で記録が残っているようです。

源氏の船は800艘、平氏は500艘だったようです。

両軍合わせて数千艘の船がいたとの記録も残っているようですが、盛っているような気がします。

関門海峡は両端が1kmもない狭い海なので、そんなに大量の船が入るようには見えないんですよね…

最初の方は平氏の方が多かったですが、さすがにこれだけ負け続けると数の上でも不利になってきましたね。

それでも開戦したばかりの頃は平氏優勢だったようです。

というのも関門海峡は潮の流れが速い海で、潮の流れが平氏に有利にはたらいたのです。

今みたいに機械で動くわけではない当時の船は、流れの影響をめちゃくちゃ受けますよね。

しかし、この海は途中で流れが変わります。

最初の向きとは逆の方向に流れ始めたわけですね。

もともと人数で負けていた平氏はだんだん押されていき、ついには滅亡することになりました。

こうして長年続いた源平合戦は終わりを告げました。

ちなみにこの戦いで、三種の神器である草薙の剣が失われています。

源平合戦で三種の神器は壇ノ浦に沈んだのか?草薙の剣は現在どうなっているのか?を解説

最後に

今回は、源平合戦の兵力に焦点を当てて解説しました!

当時の人口は700万人前後と予想されているようなので、数万から10万人の戦いがいかに大きなものかわかりますね。

現在の人口(1億2000万)に直して考えると、当時の10万人は現在の170万人になります。恐ろしい…

他にも源平合戦に関連する記事を書いていきますので、気になったら見てみてください!

最後までお読みいただきありがとうございました!

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