源平合戦の石橋山の戦いを簡単にわかりやすく解説!勝敗やエピソード、その後についても紹介

源平合戦の初期に、石橋山の戦いという戦いがあります。

あまり知名度のない戦いですが、内容や勝敗はどうだったのでしょうか?

この記事では、石橋山の戦いについて簡単にわかりやすく説明します。

参考:源平合戦(治承・寿永の乱)をわかりやすく解説!

目次

石橋山の戦いの背景

石橋山の戦いの少し前、世の中はまさに平氏の天下でした。

平清盛の出世によって、それまで貴族や皇室の雇われポジションだった武士が大きな力を持つことになったんですね。

しかし、そんな平氏をよく思わずに反乱を起こした人物がいます。

それが以仁王(もちひとおう)という人物です。

彼は全国の源氏に「平氏倒そうぜ!」と呼びかけ、源頼朝などが立ち上がりました。

頼朝は、北条氏(奥さんの北条政子の実家)と一緒に、伊豆国(いずのくに)の偉い人だった山木兼隆(やまきかねたか)を倒します。

参考:源平合戦と北条氏の関係について考える

次に頼朝は相模国(さがみのくに、現在の神奈川県)に入り、関東進出を目指しました。

それに対して平氏側の武将も兵を集め、源氏と石橋山で向かい合います。

こうして石橋山の戦いが始まりました。

石橋山の戦いの内容

援軍が遅れる

山木兼隆を倒した頼朝ですが、ひとりで関東を切り開いていけるほどの力はありませんでした。

そこで頼朝は、相模国にいた三浦氏と呼ばれる人たちに助けてもらうことにします。

しかし、三浦氏は石橋山の戦いに間に合いませんでした。

その日は大雨だったので、川が増水して渡れなかったんですね。

頼朝は仕方なく、300騎で石橋山に入ることになります。

「騎」というのは馬に乗った兵の数です。

馬に乗っていない兵もいるので人数としてはもっと多かったと思います。

平氏の攻撃

平氏軍

300騎しかいなかった頼朝に対して、平氏の軍は3000騎もいました。

平氏の大将は大庭影親(おおばかげちか)という人物です。

彼は、周りの武士に「頼朝倒そうぜ!」と呼びかけて兵を集めました。

協力した武将がたくさんいたので、これだけ人数が増えたんですね。

攻撃開始

三浦氏が到着する前に戦いを終わらせたかった平氏は、攻撃を始めます。

すでに暗くなっており大雨という悪天候でしたが、早く決着をつけたかったんですね。

夜に戦うと敵味方の見分けがつきにくくなるので、普通は夜に戦いません。

戦いの結果には人数の差が大きく影響しました。

300騎に対して3000騎ですから、さすがに頼朝も勝てません。

名のある武将も討ち取られ、頼朝は命からがら逃げだしました

頼朝の逃亡

頼朝たちは二手に分かれて逃げることにしました。

伊豆国から一緒に来た北条時政や北条義時は、甲斐国(現在の山梨県)に逃げました。

頼朝は洞窟に隠れて平氏をやり過ごすことにします。

このとき、平氏側の武士である梶原景時(かじわらかげとき)という武将に見つかってしまいます。

しかし景時は頼朝を討ち取ることはせず、「あっちが怪しい」と嘘をついて平氏軍を別の方向に誘導しました

九死に一生を得た頼朝は、船で安房国(あわのくに、現在の千葉県)へと渡りました。

石橋山の戦いのその後

三浦氏と平氏の戦い

石橋山の戦いに間に合わなかった三浦氏は、頼朝が負けたことをを知って引き返します。

このとき平氏側の武将と戦いになりますが、戦に勝って領地に戻りました。

その後、平氏が再び三浦氏を攻めて城を落とします。

城を失った三浦氏は、領地を捨てて逃げることになりました。

一度負けた平氏は「三浦許さん!」ということで、気合を入れて人数を集めて戦いました。

頼朝の再起

安房国へ逃げた頼朝は、関東地方の武士を味方にして力をつけます。

そして再び現在の神奈川県へと進み、鎌倉を拠点にします

石橋山の戦い後、頼朝は最前線で戦うことをせず、鎌倉から指示を出すという役割を担うことになります。

のちの鎌倉幕府の基礎はこの頃できたんですね。

石橋山の戦いのエピソード

梶原景時が頼朝を見逃した時の様子を詳しくご紹介します。

大庭景親をだました梶原景時

洞窟に隠れていた頼朝ですが、梶原景時に見逃してもらうことでなんとか逃げることができました。

実はこのとき景時は、嘘をついているんじゃないかと疑われているんです。

景時と大庭景親は、こんな感じの会話をしたと言われています。会話は多少脚色してます笑

景時「誰もいなかった。あっちが怪しいからいってみよう」

景親「本当か?もしかしたら誰かいるかもしれないから俺も見てこよう」

景時「俺を信用できないのか!?入ったらただじゃおかねえぞ!」

景親「(すごい迫力だな、、、そこまでいうなら、、、)」

「わかった。あっちを探してみよう」

景時が頼朝をかばった感動的なシーンですが、作り話ではないかともいわれています。

面白い話なので実話だったらいいなと思います笑

景時はなぜ頼朝を見逃したのか

実際に景時が頼朝を見逃したのだとしたら、どうしてそんなことをしたのでしょうか?

武士の世の中ですから、バレた時には処刑されてもおかしくなく、見逃すことはリスクが大きい判断だったと思います。

様々な説がありますが、そのひとつとして石橋山の戦いから100年前の後三年の役があげられます。

その戦いで景時の先祖は、源義家という人物に仕えていました。

つまり、もともと梶原家は源氏の家臣だったというわけですね。

しかし、平氏の世の中となったことで平氏に仕えていたということです。

景時の気持ちはいつ変わったのかわかりませんが、もしかすると嫌々平氏に仕えていたのかもしれません。

この戦いで頼朝を助けた景時は、鎌倉幕府で重要なポジションにつくことになります。

最後に

今回は石橋山の戦いについて解説しました。

この戦いで頼朝が生き残ったことは、その後の歴史に大きな影響を与えたと思います。

源平合戦に興味を持った方は、ぜひ他の記事も読んでみてください。

あわせて読みたい
源平合戦の戦い一覧とそれぞれの簡単な解説。年表で時系列を把握しよう 源平合戦という言葉は、何年もにわたって起こったいろいろな戦いをまとめて表したものです。 この記事では、有名な戦いからちょっとマイナーな戦いまで、源平合戦の主な...
あわせて読みたい
源平合戦はなぜ起こったのか?原因やきっかけをわかりやすく解説! 源平合戦のきっかけはなんでしょうか? 源平合戦は日本史の中でも有名な戦いですが、きっかけを知らない人は多いと思います。 源平合戦は、平氏の滅亡、鎌倉幕府の始ま...
あわせて読みたい
源平合戦で活躍した人を紹介!最強の武将は誰かを考える 源平合戦では数々の戦いが行われ、いろいろな武将が活躍しました。 この記事では、源平合戦で活躍した武将とそのはたらきについて紹介します。 源平合戦(治承・寿永の...
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

目次