源平合戦はなぜ起こったのか?原因やきっかけをわかりやすく解説!

源平合戦のきっかけはなんでしょうか?

源平合戦は日本史の中でも有名な戦いですが、きっかけを知らない人は多いと思います。

源平合戦は、平氏の滅亡、鎌倉幕府の始まりと、歴史の大きな転換となった戦いです。

この記事では、源氏と平氏の対立や源平合戦の原因について、簡単にわかりやすく解説していきます!

源平合戦(治承・寿永の乱)の戦い一覧!年表で時系列を把握しよう

目次

源氏と平氏の対立

保元の乱

源平合戦のきっかけは、その始まりから20年以上前の保元の乱(ほうげんのらん)にさかのぼります。

保元の乱とは、後白河法皇(ごしらかわほうおう)と崇徳上皇(すとくじょうこう)が、天皇になるために戦った事件です。

戦ったと言っても、彼は皇室ですから自ら刀を持って戦うわけではありません。代わりに武士に戦ってもらうわけです。

武士といえば、土地を治めたり政治を行ったりと、地位高く、大きな力を持っているイメージがあります。

しかし、この当時の武士の力はそこまで強くはありませんでした。

武士はあくまで雇われの立場。

権力があるのは天皇や貴族たちでした。

後白河法皇と崇徳上皇は、それぞれ武士を使って戦いを繰り広げます。

このとき後白河法皇について戦ったのが、平清盛と源義朝(みなもとのよしとも)です。

源義朝は、鎌倉幕府を作った源頼朝、源平合戦で活躍した源義経の父親です。

保元の乱は後白河法皇が勝利し、清盛と義朝は褒美をもらいます。

この争いをきっかけとして、武士が力をもつようになります。

ちなみに源氏や平氏がみんな後白河法皇についたわけではありません。清盛や義朝は、敵側について敗れた身内を手にかけています。厳しい世界ですね…

平治の乱

保元の乱に勝利し、天皇となった後白河法皇ですが、今度はその部下たちが争いを始めます。

そして、その部下たちについたのが清盛と義朝です。

保元の乱では仲間として戦った2人ですが、今度は敵として戦うことになりました。

これを平治の乱(へいじのらん)といいます。

保元の乱において、平氏との褒美の差に不満を持った義朝が、清盛を倒そうとして便乗したという説もあります。

結果は清盛側の勝利。

義朝は討ち取られました。

普通であれば義朝の子供たちも処刑されるはずですが、清盛が情けをかけて見逃し、頼朝は伊豆への島流しとなりました。

後に清盛はこの決断をおおきく後悔することになります…

平氏の全盛期

清盛の出世

平治の乱で勝利した清盛は、大きなを持つことになります。

彼は保元の乱で後白河法皇に味方し、平治の乱でも後白河法皇を助けていたため、天皇からの信頼はかなりのものでした。

この記事では法皇に統一していますが、後白河法皇は、天皇→上皇→法皇と名前が変わっていきます。

別に3人いるわけではなくすべて同じ人ですが、天皇を退いたら上皇、出家したら法皇となります。ややこしいですね…

次々とのぼりつめていく清盛ですが、自分の娘を天皇と結婚させ、その子供を次の天皇とすることでさらに力をつけようとします。

そして、清盛の娘である徳子と、後白河法皇の息子である高倉天皇が結婚します。

この2人の間に生まれた子が、安徳天皇です。

この間、源氏は目立つことなく、歴史の影にひっそりと潜んでいました。

まさに、平氏の黄金期、源氏の暗黒期です。

清盛と後白河法皇の対立

最初は後白河法皇は仲良くやっていましたが、徐々にコミュニケーションがとれなくなっていきます。

そして、後白河法皇の側近である院近臣(いんのきんしん)と比叡山が対立するという事件が起こるのですが、このとき清盛は比叡山に味方して院近臣たちを捕まえます。

清盛が比叡山に味方したのは、打倒平氏を狙った人々の集会に後白河法皇が参加していることを知ったからだといわれています。

後白河法皇の力を弱らせたかった清盛の嘘ではないかとの説もあります。

いずれにせよ、仲の良かった2人がどちらかを陥れようとしていたようです。恐ろしや…

こうして、清盛と後白河法皇の対立はさらに深まっていきます。

安徳天皇の即位

後白河法皇の力を弱めるため、清盛は孫である安徳天皇を天皇にします。そして、義理の息子である高倉天皇の院政(天皇を退いた人が再び政治を行うこと)が始まるのです。

高倉天皇の院政といっても、実権を握っているのは清盛です。

ただでさえ義理のお父さんには逆らいにくいものですが、相手が清盛ともあれば余計に逆らえなかったでしょうね。

清盛は後白河法皇を幽閉し、院政を行う上の側近も平氏の関係者で固めていきました。

こうして平氏の力はゆるぎないものとなっていきます。幽閉というのは、どこかに閉じ込めて影響力をなくしてしまうことです。

源平合戦へ

安徳天皇が天皇となったことで、後白河法皇の息子の以仁王(もちひとおう)が打倒平氏の号令を出します。

以仁王は高倉天皇のお兄さんですが、高倉天皇の息子が天皇になってしまったことで、自分にチャンスはないと思ったわけです。

以仁王の号令は全国の源氏に伝達され、各地で源氏が兵を起こすことになります。

その中には、源頼朝や源義仲など、源平合戦に大きく関わる人物がいました。

源平合戦は、こうして幕を開けることになるのです。

源平合戦の内容については、こちらの記事をご覧ください。

源平合戦(治承・寿永の乱)を簡単にわかりやすく解説!

まとめ

最後に、源平合戦が始まるまでの流れを簡単におさらいしましょう!

・保元の乱で武士の力が強まる

・平治の乱で平清盛と源義朝が対立し、清盛が勝利

・清盛と後白河法皇の対立

・安徳天皇の即位

・以仁王の号令と源氏の挙兵

という流れで、源平合戦へと発展していきました。

他にも源平合戦の戦いや、武将に関する記事を書いていくので、気になったら見てみてください!

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

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