狩野英孝の先祖?狩野永徳は何した人なのか?ライバルや代表作、作品の特徴について解説。信長、秀吉、毛利家などとの関係

狩野永徳(かのうえいとく)は、安土桃山時代に活躍した絵師(画家みたいなもの)です。

名前を見ると芸人の狩野英孝さんが浮かびますが、何した人なんでしょうか?

この記事では、狩野永徳の作品の特徴をはじめ、豊臣秀吉、織田信長など戦国大名との関係についても解説します。

目次

狩野永徳は狩野英孝の先祖?

狩野永徳と聞くと、お笑い芸人の狩野英孝さんが浮かぶ人も多いんじゃないでしょうか?

僕も初めはそう思いました笑

しかし、狩野永徳と狩野英孝さんに関係はないようです。

狩野永徳の血筋

まず、この記事の主人公である狩野永徳の血筋ですが、狩野派と呼ばれる絵師の一族の4代目です。

そして、狩野派の先祖は藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)という貴族だったようです。

貴族を先祖に持つ狩野派ですが、永徳が活躍した安土桃山時代後も絵師として活動していました。

狩野派は江戸時代が終わるまで、絵師界のエリートといえる存在でしたが、明治時代に入るとその力は失われていきました。

つまり、狩野永徳は「藤原の名を持つ貴族を祖先に持つ絵師で、その子孫は明治時代に入るまで絵師として活動していた」ということになります。

狩野英孝さんの血筋

一方の狩野英孝さんですが、彼の実家は櫻田山神社という神社です。

この櫻田山神社は深い歴史を持つ神社で、その始まりは1500年前にさかのぼります。

この神社を建てたのは、鹿野掃部之祐(かのかもんのすけ)という人物で、彼が使えていた武烈天皇という天皇をしのんで建てたようです。

同じ「かの」ですが、ちょっと漢字が違いますね。

そして、狩野英孝さんの祖先である狩野家と、この鹿野掃部之祐に関係があったと言われています。

鹿野掃部之祐がいた時代は、狩野永徳の祖先である藤原武智麻呂の生まれるより前です。

つまり、狩野永徳の祖先が「藤原武智麻呂子孫、狩野派」を名乗る前から、狩野英孝さんの祖先が狩野家として存在したという事になります。

このことから、狩野永徳と狩野英孝さんに関係はないと考えられえます。

狩野永徳は何した人?~エリート街道とライバルの存在~

ここからは、狩野永徳はどんな人なのか見ていきましょう。

幼少期

永徳は1500年代半ばに生まれました。

さきほども書いたように、実家の狩野家は室町幕府に雇われた絵師をしていました。

生まれつきの画家家系だったんですね。

彼は絵の才能も抜群で、将来有望な若者でした。

そんな永徳は、10歳の時に当時の将軍である足利義輝に会います。

義輝は室町幕府の13代将軍です。

10歳といえば今の小学校4年生ですから、日本一偉い人に会うのはめちゃくちゃ緊張したでしょうね。

絵師としての活躍

永徳は、貴族とも仲が良く、近衛家(このえけ)という家で絵を描いています。

描いた絵は障壁画(しょうへきが)というもので、ふすまや壁などに描いた絵のことです。

大河ドラマとかを見ていると出てきますが、偉い人がいる部屋の壁一面に描いてあるあれです。

絵師というと紙に絵を描いて売っている人をイメージしますが、永徳は壁に描く人だったんですね。

彼の実力は抜群で、戦国大名にも気に入られます。

代表的なものには、織田信長が建てた安土城などが挙げられます。

安土城は信長が天下統一の証として建てた、まさに信長のシンボルと言える城です。

そんな大事な城に描く絵を頼まれることからも、いかに永徳の絵が気に入られていたかがわかりますね。

さらに永徳は、豊臣秀吉にも雇われています。

そして、あの大阪城にも絵を描きました。

信長、秀吉と、天下人に気に入られた永徳は、まさに絵師界の天下をとったと言えるのではないでしょうか。

大量の仕事

大活躍の永徳ですが、そのぶん苦労もありました。

描かなければいけない絵がめちゃくちゃあったんですね。

しかも相手は超実力者ですから、「できませんでした!」なんていうことも言えなかったでしょう。

謝ったところで許してもらえるかどうか(震え)

永徳は大量の仕事をこなすために、朝から晩まで休む間もなく働き続けました。

ライバルの存在

そんな彼に追い打ちをかけるような出来事が起こります。

それはライバルの台頭です。

永徳のライバルは、長谷川等伯(はせがわとうはく)という人物でした。

彼は田舎の出身でしたが、絵師として一番になりたいと願う野心家でもありました。

しかし、当時の絵師といえば狩野永徳。

絵師としてトップになるには永徳を倒す必要があります。

そして、永徳に任されていた仕事に割り込もうとしました。

永徳がトップの狩野派が請け負っていた仕事を、長谷川派もいっしょに請け負うようにしたんですね。

この仕事は、後陽成天皇(ごようぜいてんのう)という天皇の奥さんが住む建物の障壁画を描くというものでした。

そして、建物を建てたのは豊臣秀吉。

等伯は豊臣秀吉の部下に頼んで仕事をもらったんですね。

晩年

等伯が自分をライバル視して仕事に割り込もうとしていることを知った永徳は、なんとか防ごうとします。

永徳は秀吉から気に入られていましたし、天皇に関係する仕事ですから他人に渡したくはありません。

この仕事を自分たちだけでやれば、後世まで残る実績になったでしょうし、天下の絵師としてのプライドもあったでしょう。

そして、長年関係のあった貴族にお願いして、等伯たちを担当から外してもらいました。

永徳は昔から貴族と仲が良かったので、この提案はすぐに通りました。

そうして、狩野派だけで仕事を請け負うことができました。

しかし、永徳はこの一か月後に亡くなってしまいます。

理由は過労。

いまでこそ「過労●」という言葉はよく聞きますが、この時代もあったんですね。

由緒正しい家系のトップとして、権力者御用達の画家として、命を削りながら絵を描かなければなかったのかもしれません。

ちなみに等伯は、秀吉が亡くなった子供のために建てたお寺の壁画を描きます。

この絵は秀吉にも気に入られ、みごとリベンジを果たしました。

狩野永徳の代表作

永徳の代表作にはどのようなものがあるのでしょうか?

ここでは2つご紹介します。

上杉家洛中洛外図屏風

漢字だらけでよくわかりませんが、京都の様子や人々の生活を表現した絵のことです。

上杉家ってなんのこと?と思いますが、これは信長が上杉謙信に贈った絵なんですね。

信長は、永徳の絵を謙信に贈ることで、幕府とのつながりをアピールしました。

「幕府おかかえの画家に絵を描かせてプレゼントできるだけの関係があるんだぞ!」ということですね。

この絵には祇園祭などの今日との名物、そして四季折々の景色や人々の日常が書かれていました。

また、描かれている人々は2000人を超えるという大作でした。

これを描いた永徳はまだ20代。

その才能がうかがえる作品です。

現在は、国宝として米沢市上杉博物館に保管されています。

期間限定で展示されることもあるようです。

参考:米沢市上杉博物館

唐獅子図屏風

こちらも漢字ばかりのタイトルです。

唐獅子(からじし)というのはライオンのことで、絵や彫刻作品に多く登場する生き物です。

この絵は金色の背景にオス・メス2匹の唐獅子が描かれています。

この絵も先ほどと同様贈り物として描かれました。

贈ったのは豊臣秀吉で、受け取ったのは毛利家です。

信長が本能寺の変で討たれたとき、秀吉は毛利家と戦っていました。

しかし、急遽引き返すために和睦する必要があり、そのしるしとして送った絵だと言われています。

長年、萩藩毛利家が持っていましたが、明治時代に皇室に献上されています。

現在は宮内庁が管理する三の丸尚蔵館に保管されています。

参考:宮内庁

狩野永徳の作品の特徴

永徳の作品の特徴として、力強い筆遣いや細かな描写が挙げられます。

また、豪華で壮大という面も持ち合わせています。

先ほど紹介した洛中洛外図屏風では、京都の名物や四季など数々の様子を描くという壮大さと、人物1人1人の細かい描写が共存しています。

また唐獅子図屏風には、唐獅子という勇猛な動物が表す力強さと、背景の金色に見られるような豪華さがあります。

このように、永徳の作品には、「力強いが繊細」というまさにいいとこどりの要素が詰め込まれています。

だからこそ、天下の画家としての地位を掴むことができたんだろうと思います。

さすがに絵の全てをひとりで描いているわけではありません。

狩野派の弟子たちと協力して描いていました。

狩野永徳と戦国大名の関係

最初は幕府お抱えの画家だった永徳は、数々の戦国大名とも関係がありました。

1人1人との関係について見ていきましょう。

織田信長との関係

織田信長との関係は、先ほど紹介した洛中洛外図屏風からだと言われています。

この絵を依頼したのは将軍である足利義輝で、上杉家に贈るために描かせた絵でした。

しかし、絵が完成する前に義輝が亡くなってしまい、信長から謙信に贈られました。

そして、永徳は信長のお抱え絵師となります。

信長のもとでは新しいタイプの絵を描いたり、安土城の障壁画を担当したりとその実力を存分に発揮しました。

しかし、信長が本能寺で討たれた際に安土城も燃えており、永徳の作品は無くなってしまいました。

豊臣秀吉との関係

そして永徳は秀吉のお抱え絵師となります。

秀吉のもとでは、大阪城や聚楽第(じゅらくてい)という秀吉の家の障壁画を担当しました。

天下人となった秀吉のお抱え絵師ですから、その実力もどんどん知れ渡っていきます。

そうして他の大名も、永徳に絵を描いてもらうようになりました。

毛利家、上杉家との関係

毛利家や上杉家のために絵を描いたという話は見つかりませんでしたが、秀吉から毛利家に贈られた絵を描いたことはありました。

洛中洛外図屏風は信長から上杉家に贈られたものですし、唐獅子図屏風は秀吉から毛利家に贈られた和睦のしるしです。

毛利家や上杉家のように、その絵を贈られた大名というのはほかにもいたと考えられます。

永徳の名前は、大名の間でも有名だったと思いますし、もしかすると彼の作品を持っていることがステータスになっていたかもしれませんね。

最後に

狩野永徳は、安土桃山時代を代表する絵師でした。

多くの大名たちに実力を認められ、絵師の天下を取った永徳。

しかし、そんな彼の作品はほとんど残っていません。

障壁画ということもあり、建物と一緒に失われてしまったものがほとんどでした。

正直なところ私は美術品に全く興味がないのですが、狩野永徳のについて知ることで、彼の作品を一目見たいと思ってしまいました。

あなたもぜひ見に行ってみてください。

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